池上
エレン・ケイは『美しさをすべての人に』第2章「祝祭の風習」の冒頭で、趣のある昔ながらの風習が暮らしの中から消えていく理由について、こんなふうに述べています。
家庭生活や風習の創造者である〈女性※〉たちは、この美しく力強い保守性が暮らしから見捨てられてゆく責任を、ある意味でいちばん負っているといえるでしょう。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第2章「祝祭の風習」
この言葉を見ていると、私だけでしょうか、どこか現代の感覚とはズレているような違和感を覚えてしまいます。
ここに挙げた言葉のほかにも、『美しさをすべての人に』の中には、エレン・ケイの女性観をうかがわせる表現がいくつも見受けられます。
今回の翻訳では、エレン・ケイの女性観が現代の読者に違和感や不快感を与え、そのすばらしい言葉の魅力を損なってしまわないよう、原文の〈女性〉の意味を尊重しつつ、必要に応じてわずかにアレンジしています。ですから、ここで挙げた〈女性※〉についてはさまざまなご意見があるかと存じますが、今回は〈大人〉と訳することにしました。
しかし、いったい、このエレン・ケイの女性観のどこに違和感を覚えるのでしょうか。ここで手短に、女性解放運動を先導したエレン・ケイの女性観について考えてみたいとおもいます。
エレン・ケイは「男女の絶対的な平等」という考え方には批判的だったといわれています。というのも、彼女は、女性には母親としての義務があり、ひいては、家庭を中心に据えつつも、同時に社会にも影響を及ぼす「社会の母」としての役割を担うものだと考えていたようです。
絶対平等に批判的だからといっても、彼女自身、自立して生活する経済力を持っていたのですから、女性が自立して社会活動に参画すること自体を否定していたわけではないようです。
それに、エレン・ケイは女性の選挙権についても、当然の権利として一貫して主張し続けました。その結果、1921年、スウェーデンでは女性の選挙権が認められます。
エレン・ケイ研究者である小野寺氏は、彼女の女性観が家庭を中心にしながらも、社会への参画を視野に入れたものであることを、わかりやすく述べられています。
エレン・ケイは、新しい児童教育を提案するとともに、母性と児童を保護するための立法を要求して、家庭を国民教育の中心とする意味で、「母よ家庭に帰れ」と呼びかけている。彼女の教育論は常に婦人観と関係がある。
− エレン・ケイ『児童の世紀』(小野寺信・小野寺百合子訳)、冨山房百科文庫
たぶん、現代社会で語られる「男女の絶対的な平等」という感覚の中で、エレン・ケイの女性観に触れると、どこか引っかかりや違和感を覚えてしまうのは、こうした背景にあるのかもしれません。

日本でも、大正時代に「母性保護」をめぐる論争が起こりました。与謝野晶子や平塚らいてうといった人たちを中心に、日本全体を巻き込むほどの議論に発展したといいます。このとき、エレン・ケイの女性観をよりどころにしていたのが、平塚らいてうでした。つまり、近代日本の女性観の形成過程には、エレン・ケイの思想が深く関わっていたというわけです。
『美しさをすべての人に』では、「母よ家庭に帰れ」という呼びかけに込められた、家庭における母や父の役割、家庭の中でも簡単に実践できる工夫やヒントがいくつか紹介されています。
須長
ありがとうございます。とても理解できました。
エレン・ケイの説く、家庭内の文化、風習、教育の重要性とは、『美しさをすべての人に』の中でも語られていることと重なってきますね。
もちろん、彼女が生きた時代と僕たちが生きる現代は、男女の平等格差や社会情勢が異なりますから、彼女の言葉をそのまま受け入れ難い部分もあります。特に日本では男女の格差が大きいですから、まだまだ改善していく必要があるということを前提としながら、エレン・ケイの言葉から今を生きる僕らが何を学ぶことができるかを考えてみても良いとおもいます。
例えば彼女の「母よ家庭に帰れ」という言葉ですが、母親だけでなくて父親も含めて、家庭に帰るように読んでみると面白いとおもいました。ただ、単に父親が主夫になったり、共働きで家事を分担するということだけだと違うとおもうんです。
ひとつ思い出した話があるのですが、スウェーデンの友人がイタリアのメーカーとデザインの仕事をしている時の話です。それは<彼がオンライン・ミーティング中に、息子の幼稚園のお迎え時間になったので途中で退席したり、イタリアの打ち合わせ現場に子どもを連れて行ったことを現地の人に驚かれた>ことに対して、彼が驚いた、という話です。
この話を聞いて、彼にとっては育児と仕事に境がないのだと感じました。育児と仕事、家庭と仕事が、彼の中では当たり前のように混ざり合っている。このことが意味するのは、親が家庭に戻るのではなくて<家庭が社会へ広がっている><社会が家庭を受け入れてくれる>。そのようなイメージです。そういえば、「家庭」という漢字は「家」と「庭」ですね。家庭は、社会とつながる庭なのかもしれません。
エレン・ケイは、家庭の美しさを説きましたが、その美しい家庭が社会へ広がっていく。それがスウェーデンという国を形作っているのだと考えると、北欧の美しさがどうして安心に包まれた幸せな美しさであるのかが窺い知れる気がします。
僕には子どもがいて、絶賛育児中です。できる限り、先方の許しを得られるならば子ども達を仕事に連れ出すようにしています。もちろん、育児のスケジュール的に連れていかざるを得ない理由もあるのですが。父親も家庭生活や風習の創造者であるためには、家庭と仕事の垣根をなくすのが自然な姿なのかなと、自分の場合はおもっているのです。
家事も教育も風習も仕事もごちゃ混ぜにして、美しい暮らしを実践していくのが、僕の今の家庭観です。