池上
今回は、1917年にストックホルムのリリエバルク芸術ホールで開催されたホームエキシビション、つまり、「住まいの展示会」の話です。
このエキシビションが開催された1910年代のスウェーデンは、たくさん問題を抱えていました。たとえば、深刻な住宅の不足や食糧難、結核などの病気の蔓延、暴動の発生、移民の増加、急激なインフレなどです。なんだか、ちょっと、今と似ているかもしれませんね。
こうした社会問題に対処するため、スウェーデン工芸協会(以後はSSFと書きます)が、劣悪な住宅状況の改善を目的に、エレン・ケイが提唱していた「創造と美しい日用品によって社会問題に取り組む」という思想を反映したエキシビションを開催しました。それがこのリリエバルク芸術ホールで開催されたホームエキシビションというわけです。
SSFはホームエキシビションの展示に合わせて、インテリアデザインのコンペティションを開催しました。といっても、ホームエキシビション以前に行われたコンペは少なく、最初期のものの一つがホームエキシビションの前に実施された、ストックホルム市庁舎の家具デザインコンペだったようです。
このコンペは、エストベリが建築を手がけたストックホルム市庁舎(ノーベル賞の晩餐会などが開催されていますね)の家具デザインを競うもので、結果、カール・マルムステンの案が採用されたことで知られていますね。
その後、SSFはコンペティションを通して、スウェーデンデザインの底上げと普及を進めていくのですが、そういった意味でも、このリリエベルクのエキシビションは大きな節目となる出来事でした。
ホームエキシビションのコンペで選ばれたのは7名ほどで、その中にはカール・マルムステンやウノ・オーレンらが含まれていました。
ウノ・オーレンが展示したインテリアデザインの特徴は、パイン材をパールホワイトに塗装した、シンプルで機能的で、とても「誠実」な家具だったと評されています。

アスプルンドはコンペには参加していませんでしたが、招待アーティストとしてインテリアデザインを展示しました。彼が手がけたのはダイニングルームで、その出窓にはケージが置かれ、中でカナリアが美しい声でさえずっていたそうです。部屋の隅には物干し竿が設置され、子ども服が掛けられていました。また、床には彩り豊かなスウェーデン製のラグが敷かれていました。
カーテンやランプシェードはとてもシンプルで、アスプルンドは「労働者階級の妻であれば誰でも作ることができるほど簡単なものだ」と語ったそうです。
この展示内容を聞くだけでも、随所からエレン・ケイの言葉が頭をよぎります。当時、このアスプルンドのダイニングルームは、その魅力的な居心地の良さによって、プレスや来場者から最も高い評価を受けたと記録されています。
カール・マルムステンはというと、このエキシビションで家具一式を発表しました。その中には、小さな花柄の壁紙もありました。(その壁紙は、その後数十年にわたり、コーベリタペットファブリックから販売され続けることになります。)
このエキシビションは、その後の北欧デザインに大きな影響を与えるグンナール・アスプルンドやカール・マルムステンが、エレン・ケイの思想に触れながらものづくりをしていた、といことを知ることのできる歴史的に貴重なものだとおもいます。
ホームエキシビションの入場料は50オーレで、当時としてはすこし高めだったようです(学生やアーティストは入場無料だったそうです)。当時は1リットルの牛乳が35オーレ、1斤のパンが90オーレでした。食料が不足し、なにより食べることを優先しなくてはならない時代でした。そんな状況にもかかわらず、ホームエキシビションには4万人以上が来場し、大成功を収めたそうです。
このエキシビションにはエレン・ケイの魂が息づいている、とスウェーデンの研究者がなにかに書いていました。厳しい時代を迎えていた当時のスウェーデンですが、エレン・ケイの思想に基づいた美しい暮らしをみんなが求めていた、ということなのかもしれません。
須長
まず、ホームエキシビションが1917年に開催されたということが、注目すべき点だとおもいます。今日、日本で北欧デザインの歴史が語られる際に、早くとも1940年代から始められることが多いようにおもいます。僕自身、北欧デザインを語る際には1940年代または50年代から始めていました。
というのも、その時代まで、スウェーデンデザインは外国のデザインを輸入していたように捉えていたからです。時代は遡りますが、ロココ様式がヨーロッパで流行した際にはスウェディッシュロココが作られ、アールデコが流行した際にはスウェディッシュアールデコが生まれたというような印象があったからでした。その中でもグスタビアンスタイルがスウェーデン独自のデザインという認識でした。
ただ、グスタビアンスタイルが北欧デザインの源流であると言い切るには疑問が残るのが個人的見解でした。現代の北欧デザインに繋がる思想が1900年代初頭から始まったという視点で北欧デザイン史を捉え直すことで、今まで見えてこなかった魅力が版画を刷るように浮き上がってきます。
そのとき、エレン・ケイがアーティストでもデザイナーでもなく社会活動化であり思想家であったことが重要です。その思想の中心にあったのが、『美しさをすべての人に』でした。クリエイターでない彼女が定義した美しさは、色彩や形状を指すのではなく、誰もが心身の内部に秘めている美しさを感じる力のことでした。
例えば、『美しさをすべての人に』を感じる力がすべての人に備わっていることを信じて、デザイナーがデザインを行っていたと前提し、改めて北欧デザインを捉え直した場合どんなことが発見できるでしょうか?
エレン・ケイは著書の中で、すべてのものが美しいとは決して言っていません。むしろ、かなりの数の例を挙げて美しくないものを否定することの方が多い印象です。では、何が彼女にとって美しくなかったのかというと、それは、著書が書かれた時代にスウェーデンに暮らす人々にとって、本来備えているはずの「美への感受性」を鈍らせるものを指していました。
すべての人が美しいと感じる力を備えているけれども、すべてのものが美しいわけではないのです。ものに宿る道徳観や文化的背景、社会的役割に対しては厳しい目で評価をしています。
エレン・ケイの信じていた感受性とは、元々その人に宿っている美しさの発見だとおもいます。だからこそ、昔からの田舎の風景や暮らしに美しさを原点とし、子どもの無垢な感受性を大切にすることを説いていました。
ホームエキシビションに参加していたグンナール・アスプルンドは、ナショナルロマンティズムを代表する建築家です。代表作でもある森の火葬場は、建築物として初めて世界遺産に登録されました。空を貫くような背の高い樹木に対比して、あまりにも小さな墓石が、訪れる私たちにスウェーデン人が森の民であることを静かに重々しく語りかけてくる名建築です。スウェーデン人とは何者なのかという一つの答えを美しく導いています。
もう一人の参加デザイナーであるカール・マルムステンは、農家などで使われていた名もなき道具を数多くリデザインしています。僕がデザインをしていたスウェーデンの家具メーカーであるカールアンダーソン&ソーネル社は1898年創業の老舗メーカーです。
創業当時の写真を見せてもらうと馬車の後ろに山積みにした椅子を販売していた様子が窺えます。地域の木工職人が馬車で回れる範囲の地域のための椅子を製作していました。または、多くの農家では自分自身で生活道具を作っていました。限られた材料で、限られた道具を使って、誠実に自分たちの暮らしのために作られた実直な道具に、素晴らしい名作のヒントをマルムステンは見出しました。