池上
『美しさをすべての人に』の第3章は「夕暮れの暖炉」です。
須長さんはご存知でしょうが、少し内容を書いてみます。
エレン・ケイは「夕暮れの暖炉」の中で、冬の長い北欧に暮らす人々にとって、暖炉の火がいかに大切な役割を果たしているかを説いています。たとえば、クリスマスなどの風習との結びつきや、子どもたちの成長に与える影響、さらには暮らしに輝きや美しさをもたらすことなどが挙げられています。
そのなかでも、暖炉と子どもの関係について、多くのページが割かれています。
ケイは、暖炉の火が住まいにあることで、子どもたちの創造力が豊かになり、家族が幸せを感じられるようになるといいます。これが、今回のお題である「暖炉の炎の創造力」と深く関わっている、というわけです。
例えば、こんな言葉が書かれています。
子どもがすこし成長すると、揺れ動く炎の形そのものが最愛の絵本になります。そこでは、子どもたち自身が創造力豊かなアーティストなのです。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
たぶん、暖炉の火は子どもたちの思考を育み、創造力を豊かにする特別な存在であることを、彼女は知っていたのだと思います。
エレン・ケイは読み聞かせがとても上手だったそうで、まだストックホルムに住んでいた頃には、友人の「子どもたちだけ」をヴァルハラヴェーゲンの住まいに招いて、物語を読み聞かせていたそうです。
そこでは、暖炉に火を灯し、暖炉の前に敷いたラグの上に子どもたちを座らせていたそうです。読み聞かせのときには、暖炉の炎だけが唯一の明かりだったとか。
地方の小さな小屋の中では、暖炉の揺らめく火が、母親のまわりに集まる子どもたちを優しく照らします。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
まるで「夕暮れの暖炉」の、この一節を思い起こさせるような情景ですね。ついでに言うと、特別なときには甘いお菓子も添えられていたそうです。
本文中に登場する「暖炉」というのは、一般的にイメージされる、壁に開口部があるタイプの暖炉を指しています。ただし、これも本文に登場しますが、古い農民の小屋にあったという暖炉はすこし違っていて、暖を取ったり調理に使ったりするための、白しっくいでできた暖炉のこととおもわれます。
たしか、ストックホルムのスカンセンに行けば、似たようなものをいまでも見ることができたとおもいます。
また、タイルストーブであれば、いまでもスウェーデンでは、自分たちで組み立てたり、古いものを大切に使い続けたりしている家庭を見かけることがあります。

「夕暮れの暖炉」が、エレン・ケイによって20歳のときに書かかれたものだと知って、とても驚きました。20歳というと、彼女一家がストックホルムに移り住んで間もない頃で、父親の仕事を手伝いながら忙しくしていたにちがいありません。それでも、まわりの人たちの暮らしや子どもたちの未来、そして美しさについて、すでに深い考えを抱いていたことがよくわかります。
暮れかかる夕暮れに暖炉の前で安らいだり、薪をくべたり、暖炉用のクッションに刺繍をしたり、長々と語り合う。そんな心のゆとりを失ったのは、私たちの時代になってからなのです。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
できることなら、須長さんのお住まいで、薪ストーブの炎を眺めながら「暖炉の炎の創造力」を語りあいたいところですが、それはまたの機会にとっておきましょう。お話のお供には、ホットコーヒーと須長さん特製のカネルブッレを添えていただけたら、嬉しいです。
須長
我が家の薪ストーブは、残念ながら炎が見えないストーブなんです。
「夕暮れの暖炉」を読んで、炎が見える暖炉にすれば良かったと後悔しています。だけど、ストーブの上でお湯を沸かしてコーヒーを淹れることができますから、今度、カネルブッレを焼いてフィーカをしましょう。
はじめて「夕暮れの暖炉」を読んだとき、炎が室内に映し出す陰影のダンスが目に浮かびました。
地方の小さな小屋の中では、暖炉の揺らめく火が、母親のまわりに集まる子どもたちを優しく照らします。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
この「揺らめく」というのが、炎独特の魅力なんですよね。
暖をとる、部屋を明るくするという機能以外に、炎には人を魅了する力があります。決して電気の照明では代役できないような。きっとエレン・ケイの生きていた時代は照明も少なく、今よりも夜はずっと暗かったでしょうし、冬は極端に日照時間が短くなるスウェーデンでの生活ですから、炎が繰り広げる陰影の世界は、彼女たちにとって僕らが想像するよりももっと魅惑的だったのではないかなとおもいます。
暖炉のある部屋は、まるで炎の作り出す蠢く陰影の世界に包み込まれるような感覚だったのかもしれませんね。暖炉があるお家はなかなかないでしょうけれど、炎のある生活を取り入れる方法としては蝋燭が手軽かもしれません。これからは、電気を消してもっと蝋燭の下での会話の時間を過ごそうとおもいました。
「何が見える?」とお互いに問いかけます。
「巨人だ。口が赤く燃えている。」
「私はプリンセスが見える、森でひざまずいているよ。」
「あそこに見える?ライオン、炎の目をしている。」
「うん、うん。それで後ろに、あれは騎士。ヘルメットを被っている!− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
エレン・ケイが書き残したこの会話はきっと、彼女が「子どもたちだけ」をヴァルハラヴェーゲンの住まいに招待して、暖炉の前で絵本を読み聞かせたときに彼女自身が聞いた実際のエピソードだったのではないでしょうか。
炎の陰影に子どもたちと彼女が包まれると、子どもたちの想像世界は、彼女の目の前にそっと、その姿を現してくれたに違いありません。そして、子どもたちの想像の世界へ一緒に迷い込んでいった彼女のその幸福体験は、その後の彼女の子どものための活動や、美しい暮らしを広めるための活動を支える大切な頼もしい原動力になっていたのではないかとおもうのです。
なぜそうおもうのかというと、僕たちコンストの活動も、創作を通して子どもや障がい者の方々と想像力を共有する喜びが、エレン・ケイと同じように僕たちの行動の原動力になっているからです。
そう考えると、エレン・ケイは暖炉のことを書きたかったのではなくて、暖炉の炎の前で繰り広げられる想像力の尊さについて書きたかったのだなとおもいます。
コンストでは、アートやデザインの創作を媒介として、他者との想像世界の共有を試みています。エレン・ケイの場合は、きっとそれが暖炉の炎だったのではないでしょうか?
他者との想像世界の共有体験は、幸せと繋がっているというのが、彼女の実体験であり、僕らも今まさに、コンストのワークショップで実感していることなんです。だからこそ、炎の中で一緒に見た想像世界の美しさが彼女の美しさの根本なんじゃないかなとおもうのです。
ちなみに僕の通っていたストックホルムの大学はヴァルハラヴェーゲンでしたので、彼女の住まいもヴァルハラヴェーゲンと聞いてとても親近感が湧きました。
池上さんは美術教育も研究されているので、子どもたちの想像力や想像世界について伺いたいです。特に義務教育の美術の時間は、全員がアーティストやデザイナーを目指しているわけではないので、製作者としてではなくて、鑑賞者としての経験を育むことが大切ですよね。その時に、他者との想像世界の共有体験をしているかいないかというのは、その後の美的価値観を育てていく上で、重要なことだとおもいます。全ての人が美しさを享受するためにも。
池上
須長さんの「もっと蝋燭の下での会話の時間を過ごそうとおもいました」という言葉を眺めていると、そういえば、スウェーデンのカフェは、たいてい薄暗く、テーブルの上には小さなキャンドルがいくつか置かれていたことをおもい出しました。それに、友人の住まいに招かれてフィーカをするときにも、よくキャンドルホルダーに小さな蝋燭が灯されていたことなども。
やはり、北欧の人たちは火のまわりで語らうのが好きなのでしょうね。もしかすると、そこには「夕暮れの暖炉」の影響が、どこかにほんの少し息づいているのかもしれない、とそんな空想にふけっていました。

須長さんの質問にあった「他者との想像世界の共有体験の大切さ」についてです。
エレン・ケイは「夕暮れの暖炉」の中で、想像するときに感性を働かせることの大切さを語っているようにおもいます。それは、別の言い方にすれば、「直感的に捉える心が大切だ」ということなのかもしれません。
「直感的にものごとを捉える」というのは、大人になるとなかなか難しいものです。それでも、子どものころに、自分のまわりや自然の中から感性を働かせて美しさを見いだすことを学んだ人は、大人になってからも感性を保ち、豊かに暮らせるでしょうし、まわりの人たちを幸せにすることもできる、とエレン・ケイはいっているのだと思います。
エレン・ケイが「子どもたちだけ」に読み聞かせをしたという点も、とても興味深いところです。
須長さんが挙げてくださった子どもたちの会話ですが、これはエレン・ケイが先生のように「炎がどんな形に見えるか話し合ってみて下さい」と問いかけたわけではありませんよね。大人が指示をせず、子どもたちが主体的に感覚を働かせて、それを互いに共有し合うというのは、きっと簡単なことではないとおもいます。
ところが、ケイはただ火の番人であり、ときどき甘いお菓子をくれる、読み聞かせの上手な大人であっただけです。それでも、子どもたちは、自然と暖炉の炎の中に美しさを直感的に見いだし、想像を膨らませて、それを分かち合っていた、というわけです。
だからこそ、すべての人ができるなら、子どもを暖炉の火の喜びと一緒に育ててほしいとおもうのです。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「夕暮れの暖炉」
そんなふうに、エレン・ケイに言われた気がしました。
須長さんの取り組まれているコンストの活動では、子どもや障がいのある方々を対象にした創作ワークショップを実施されていますよね。私も何度か参加したことがありますが、ワークショップで創作に取り組む子どもや障がいがある方々を見ていると、エレン・ケイのいうように、大人が指示をすることなく、参加者が感性を働かせて想像する直感的な創作活動が、自然に展開されているように感じました。
だからこそ、これからもコンストの活動に注目して、学ばせてもらいたいとおもいますし、もっと多くの人に知ってもらいたい活動だと考えています。
須長
確かに、池上さんが書いてくれたように、エレン・ケイはとても優秀な、しかも美味しいお菓子を抱えた最高の火の番人だったのかもしれませんね。彼女は、番人として想像世界が生まれやすい安心感に包まれた場所を作り、見守ってくれていました。口や手を出さずにただ、見守るってなかなか難しいことなんですよね。つい、口を挟みたくなってしまいます。
空想について考えてみたくて、ちょっと、自分がどんな時に空想をするのかをおもい浮かべてみました。
すると、僕は圧倒的に一人で空想することが多かったです。多分、皆さんも空想するときは一人の時間が多いのではないでしょうか? あまり空想を他者と共有することってないとおもいます。空想世界を他者に見せることはある意味、自身の内側を晒すような無防備な行為だからではないでしょうか?
想像世界は、無防備であるからこそ尊くて美しいことを知っていたエレン・ケイ。だから、暖炉の前で、ケイが暖炉の前に作り出した場所とは、子どもたちが無防備でいられる、空想世界を友人たちと自由に遊び回れる安心できる場所だったのだとおもいます。
子どもの頃のごっこ遊びは、他者と空想世界を共有していましたよね。僕も幼い頃はごっこ遊びが大好きでした。確かに、ぬいぐるみは生きていたし、レゴで作った建物の中に入ることもできたし、レーザーは手から発射できました。しかも一緒に遊んでいる友人もそれが共有できていました。
コンストで子どもや障がいのあるクリエイターたちと一緒に創作をしていると、こういった子どもの頃に友人たちと想像世界を共有していた幸せに満たされる感覚が蘇ります。
子どもはもっと空想遊びをたくさん楽しんで欲しいですよね。ある程度の年齢になるとごっこ遊びや空想遊びをしなくなってしまうけれど、遊びの形は変わっても良いから成長してもごっこ遊びを続けられたら良いのにとおもいます。大人になっても、空想におもいふける時間をもっともっと増やすべきではないかとおもうんです。
ごっこ遊びを大人になっても続けるための一つが、「創作」という遊びだとおもっています。絵を描く、音楽を奏でる、ダンスをする。自分の空想世界の中で戯れることができれば、一人で創作も良いとおもいますし。他者と一緒に創作することができれば、より良いとおもいます。
だからコンストでは、子ども、障がい者、プロのデザイナーがごちゃ混ぜで共に創作できる場所としてワークショップをしています。
今後は、高齢者の方々や異なるプロフェッショナルの方もどんどん混ざって空想世界を共有しながら創作ができるワークショップの機会を作りたいですね。池上さんのゼミの学生さんにも授業で取り組んでもらったのは僕らにとっても良い機会でした。
空想世界を自由に遊び回れる、まるでエレン・ケイの作った暖炉の前の心地よい場所や時間。それを育み暮らすことがエレン・ケイが僕らに指し示してくれた幸せのカタチなんじゃないかなとおもっています。