須長
あらためまして、このたびはご出版おめでとうございます。池上さんがコロナ禍で自宅で過ごされる中、スウェーデンの書籍の翻訳を進めていらっしゃるとうかがって以来、この本の完成を楽しみにしていました。
池上
ありがとうございます。うれしいことに、2021年にエレン・ケイの『住まいの中の美:エーレンスヴァルドの文章のささやかな説明』(「金沢大学人間社会研究域学校教育系紀要」第13号 2021/03)の翻訳を発表したところ、SNSやブログ、北欧関連の展覧会などを通じて、エレン・ケイの美の思想をご紹介いただく機会に恵まれ、素敵な反響をいただきました。
この『住まいの中の美:エーレンスヴァルドの文章のささやかな説明』というのは、スウェーデンの雑誌「IDUN」にエレン・ケイが寄稿した短いエッセイでした。それに対して、今回翻訳した『美しさをすべての人に』は、その何倍も長い作品でしたので、翻訳にも時間がかかりました。それでも、これはエレン・ケイの美の思想を日本に紹介した自分の義務だと感じ、最後までやり遂げたいという思いで取り組みました。そして、コンストさんのお力添えをいただけたことで、ようやく出版につなげることができました。
須長
いいえ、とんでもありません。こちらこそ大変貴重な経験をさせていただきました。
この往復書簡では、エレン・ケイ『美しさをすべての人に 』の翻訳を手がけてくださった池上さんとともに、もう一度、エレン・ケイの言葉を読み返しながら、感想を共有させていただきたいとおもいます。すでにお読みになった方にも、これからお読みになる方にも、『美しさをすべての人に』をより深く楽しみ、読んでみたくなるようなお話ができればと考えています。
池上
はい。それではまず、エレン・ケイと、今回翻訳した本について、簡単にご紹介させていただきます。エレン・ケイは、日本では『児童の世紀 』の著者として、あるいは女性解放運動の先駆者として知られています。ところが、北欧に限らず、ヨーロッパやアメリカでは、哲学者、そしてデザイン理論家としてもよく知られています。
エレン・ケイが生涯に書き残した本は40冊以上にのぼり、エッセイやジャーナルは何百もあるそうです。ケイの著書は、ほとんどのヨーロッパの言語に翻訳されて、もちろん、英語にも訳されています。
ケイが活躍したのは、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてですが、当時、最も影響力のある知識人の一人とされています。そのたくさんある著作の中で、暮らしの美しさに関係したものをまとめたのが、累計2万部発行された、この『美しさをすべての人に』というわけです。

須長
エレン・ケイの多肢に渡る活動と影響力には驚かされますね。彼女の言動の中心には、いつも人々の幸せがあったようにおもいます。そして「幸せになるための暮らしとは」を説いたのが、この『美しさをすべての人に』だったのですね。
池上
はい。『美しさをすべての人に』の原題は、スウェーデン語で『Skönhet För Alla』です。英訳すると Beauty for all や Beauty for everyone となります。そのため、あらためて説明の必要はないかもしれませんが、日本語訳は『美しさをすべての人に』としました。
この本が出版された19世紀後半のスウェーデンは、工業化や都市への人口流入が進み、大きな社会の変化のただ中にありました。そのような時代においても、「すべての人」が美しさを享受できるというタイトルには、エレン・ケイの強い意志と優しさ、そして未来への希望が込められているように感じます。そうした思いもあり、今回の翻訳では「すべての人に」という語をあえて後ろに置き、印象深く響くよう工夫しました。
スウェーデン語や英語で書かれた北欧デザインの本をながめてみると、スウェーデン、あるいは北欧のモダンデザインは、エレン・ケイを起点に書かれていることが多いようにおもいます。
たとえば、須長さんもご存知だとおもいますが、マイヤ・イソラの「KAIVO」の表紙が印象的な『Scandinavian Design』という本には、こんなふうに書かれています。
北欧では、「よいデザイン」という概念が社会に深く浸透しており、優れたデザインの製品が当たり前のように作られています。その背景には、エレン・ケイの『美しさをすべての人に』の影響やスウェーデン工芸協会の支援があります。北欧のデザイナーたちは、モダニズムの中で「人」を中心に据え、整然さ、技術、美しさという原則を解釈しながら、手頃な価格でありながら美しく、実用的な家庭用品を追求してきました。
(Charlotte Fiell『Scandinavian Design』TASCHEN、2002)
また、スウェーデンのヨテボリにあるルスカミュージアムでは、1991年から「Från Ellen Key till IKEA(エレン・ケイからイケアまで)」という展覧会が長期にわたって開催されました。エレン・ケイがスウェーデンのモダンデザインの始まりに深く関係していることがわかります。
須長
彼女は、『美しさをすべての人に』ということを言葉で伝えるだけではなく、デザイン展示会の企画をしたり、陶器メーカーの開発に助言した可能性も見えてきますね。そしてその活動はその後のスウェーデンデザインへ大きな影響を与えていることにとどまらず、北欧の人々の幸福感にも関係していそうです。
北欧デザインが愛されている日本において、むしろなぜこれまで北欧デザインを語る際にエレン・ケイの『美しさをすべての人に』があまり引用されてこなかったのかが不思議なくらいです。北欧デザインの本質に迫る上で欠かせない要素ですよね。
この往復書簡では、『美しさをすべての人に』のスピンオフ的な位置づけとして彼女が著書の中で書ききれなかったこと、書かれたことをどのように実際に行動に移したかなどを探っていきたいですね。スウェーデンで暮らした経験も織り込みながら、僕たちの専門であるデザインを中心に置いて彼女の功績を辿り、紐解くことで、現代に生きる僕たちにとって幸せに暮らすためのヒントが見つかれば嬉しくおもいます。