池上
「エレン・ケイがアーティストでもデザイナーでもなく社会活動化であり思想家であったことが重要」ですと、前回の往復書簡で須長さんが書かれたのを読んで、私もそのとおりだとおもいました。
エレン・ケイが残したものが「無形」の思想であったからこそ、マルムステンやアスプルンドといった、後の北欧デザインを代表するデザイナーたちは、その思想に対して自由に創造力を働かせ、豊かな「有形」のデザインを生み出すことができたのではないかとも考えられます。
だからこそ、マルムステンやアスプルンドがリリエベルクのホームエキシビションに参加し、エレン・ケイの思想に直接触れ、それを形にしたという事実は、その後のスウェーデン・デザインに大きな影響を与える出来事だったと思います。
無形だったエレン・ケイの思想を、スウェーデンの人々が形あるものとして見て、理解することができたという点でも、このエキシビションは非常に意味のあるものだったのではないでしょうか。
さて、ここではリリエベルクのホームエキシビションを、「アーティストと製造業者との協働」という視点からも見てみたいとおもいます。
すべての人が美しいものを安価に手に入れる唯一の方法は、製造業者(特に家具や壁紙、生地、ガラス、磁器、金属製品を扱う業者)が、コンスト・スロイドの熟練職人たちと協力してものづくりをすることです。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」
1899年のブルー・ルームとグリーン・ルームの展示会で、エレン・ケイはアーティストと製造業者の連携を実践して見せました。この点については「第4回 1899年のブルー・ルーム展とグリーン・ルーム展」で書いたとおりです。そのエレン・ケイの思想を引き継いだスウェーデン工芸協会は、リリエベルクのホームエキシビションで、アーティストと製造業者の連携を大々的に実践しました。
その後、その取組はやがて、国内製造品の品質と美的価値を高めるために、アーティストと技術者の共同作業を奨励することになる、というわけです。
工業化が進む時代の中で、機械とアーティストの協働によって、より美しいものを暮らしの中に取り入れていこうとする姿勢。そこには、エレン・ケイに始まる北欧モダンデザインの源流が一つの流れとなって形を現し始めたことがうかがえます。このホームエキシビションは、そのきっかけとなった重要な出来事でもあったと思います。
ここで、リリエベルクのホームエキシビションの中から、グスタフスベリ社の食器を一つ紹介します。
エレン・ケイは、当時のスウェーデンで流行っていたアール・ヌーボー調で装飾過多の食器を嫌い、『美しさをすべての人に』の中で、無地の美しいお皿を称賛したことは以前にも触れましたね。
そして、ブルー・ルームで1899年にロールストランド社から、エレン・ケイがプロデュースしたとおもわれる真っ白なお皿が発表されてから18年後、1917年のホームエキシビションで、今度はグスタフスベリ社からエレン・ケイの思想を反映した白い器が発表されました。グスタフスベリ社にアートディレクターとして就任したヴィルヘルム・コーゲがデザインしたその食器〈ワーカーズサービス〉こそ、題目の「グスタフスベリの白い器」というわけです。
エレン・ケイが、グスタフスベリ社やヴィルヘルム・コーゲに具体的な指示をしたのか、いまでは、知るすべはありません。しかし、エレン・ケイの思想を反映した展示会であったことを考えると、ヴィルヘルム・コーゲがエレン・ケイの思想にふれ、当時の労働者の人たちをおもいながら形作ったものが、この〈ワーカーズサービス〉だということは間違いありません。
この食器は〈ワーカーズサービス〉(労働者用食器)として、たくさんの人に長く愛されました。そして、その後のスウェーデンの食器、もちろん、グスタフスベリ社でヴィルヘルム・コーゲの後を継いだスティグ・リンドベリなどが作り出す食器にも影響を与えてきた、というわけです。

北欧デザインの食器といえば、シンプル、機能的でありながら、どことなく自然な優しさを感じます。実は、そこにはエレン・ケイの思想が色濃く反映され、今にも繋がっているといえるのかもしれません。
須長
北欧のデザインの源流が1900年初頭のエレン・ケイにあるという考察を初めて池上さんから聞いた時には正直驚きました。だけれども、その後、池上さんが翻訳したエレン・ケイの本を読んでみるとその意味がとてもよく理解できました。理解というのは語弊があるかもしれません。
系統図的な歴史を理解するというよりももっと親密な意味で、言い換えれば、友人同士が分かり合えたみたいな感じでしょうか? デザインを色や形や様式として理解するのではなくて、スウェーデンの人々の道徳観や祈りそういったものを含めて、物語として知ることができた気がします。スウェーデンデザインの魅力の秘密を知るには、大切な本ですよね。
無地の食器のデザインと聞いて最初に思い浮かぶのはH55でした。
H55とは、1955年にスウェーデン西海岸の都市ヘルシンボリで開催されたデザインの国際博覧会です。この博覧会のテーマが「芸術と工芸」で、美術品が工業品へ応用できるかを示すことを目的としていました。
北欧各国はもちろん、日本も参加をしています。この55年を境に、日本で知られている、僕らの想像するいわゆるシンプルでモダンな機能的な北欧のイメージが始まったと聞いています。
でも、もっと昔にエレン・ケイは、「芸術と工芸」による北欧デザインの源を試みていたんですね。
なぜ、無地の食器がデザインされたのかというと、〈ワーカーズサービス〉(労働者用食器)だからなんです。それまでの華やかな装飾の食器は基本的にセットとして使うことを前提に作られていました。前菜から食後のコーヒーまで、同じ装飾の食器を使います。対して無地の食器というのは、組み合わせて使うことができます。
女性が社会に進出し、家事から解放されることで、より効率的な食事が家庭で作られるようになったのだとおもいます。暮らし方や食事の変化に合わせて、自由に組み合わせができる無地の食器が求められたのだとおもいます。
当時の食器棚のデザインを見ても規格化されて、効率性が随分と上がっています。また、人間工学がデザインへ応用されて便利にどんどん快適になっていくのもこの時期だとおもいます。もしかしたら、ヘムスロイドを愛したエレン・ケイにとっては、この工業化や規格化は、少し予想とは違った世界だったかもしれませんが……。でも、無地の食器が台頭すると同時にスウェーデンの陶器メーカーでは、アーティストの図案を職人が絵付けをするアトリエのシリーズがありました。きっとエレン・ケイはアトリエシリーズの方が好みだったんじゃないかな?
ヴィルヘルム・コーゲの〈ワーカーズサービス〉のデザインの食器はファイアンス焼きで磁器よりも温かみのある表情で、そこにブルーの装飾性を抑えながらもエレン・ケイらしい上品さと牧歌的なおおらかさが共存していて今みても魅力的なデザインだとおもいます。
エレン・ケイの言葉に
「美しさをすべての人に」という考えが実現するのは、醜いものが手に入らなくなり、美しいものが今の醜いものと同じくらい手ごろな価格になったときです。
− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」
とあります。〈ワーカーズサービス〉は、彼女にとって少しでも多くの人へ美しさを届ける手工芸と工業製品を融合する試みだったのかもしれませんね。
スウェーデン郊外の蚤の市に行くとこの時代の器を見ることがありますが、現代の食器では醸し出せない雰囲気があります。サマーハウスにお邪魔するとその時代の食器はいまだに大切に使われていますし、割れてしまった一枚を蚤の市で探す姿も見られます。エレン・ケイの愛した風景がスウェーデンの田舎にはまだ残っているんだなと実感しますね。