ホーム エレン・ケイと北欧デザインの往復書簡 第5回 民藝運動とエレン・ケイ

エレン・ケイと北欧デザインの往復書簡

スウェーデンのアンティークショップの店先に並べられた古道具(Ph.Sunaga)

第5回 民藝運動とエレン・ケイ

2025.06.21

須長

僕は、エレン・ケイの暮らしに関する著書を説明する際に、日本で興った民藝運動を例に挙げています。もちろん、民藝運動の思想とエレン・ケイの思想は異なる部分がありますが、道具、工芸、デザインを通して人々の暮らしを美しくしたいという両者の想いは重なる部分が多いとおもいます。
さらにいえば、イギリスのアーツアンドクラフツ運動がありますね。産業革命によって手仕事の美しさが失われつつあった状況を危惧したのがアーツアンドクラフツ運動の中心的人物であるウィリアム・モリスであり、民藝運動の柳宗悦であったのだとおもいます。

二人が工芸品や道具の物質の美しさ、職人の精神を中心に思想を組み立てていったのに対して、エレン・ケイの思想はちょっと異なる気がします。いつも彼女の思想の中心にあったのは、「美しさを受け取る感受性は、すべての人に授かっている」ということなんですよね。彼女の示した美しさの中心は道具や工芸品等のモノ側にあるのではなく、人々の心の中にあります。その素晴らしい感覚を忘れないで!というのが、彼女が一番伝えたかったことだったのだとおもいます。

エレン・ケイもヘムスロイド(スウェーデンの工芸品)を、インテリアスタイリスト的な立場で、美しい暮らしをするためのおすすめとして紹介していますよね。だけど、その工法や職人の精神性に言及するというよりも、どちらかというと工業製品よりも美しい手工芸品を暮らしに取り入れてみて、ほら、暮らしがこんなに幸せになったでしょう!みたいな立場ですよね。

ウィリアム・モリスや柳宗悦のように、蒐集や創作をほとんどしなかったエレン・ケイの思想は、視覚として伝える材料が少ないため見えにくいのですが、言語によって、北欧デザインにとって重要な道徳律を工芸家やデザイナーなどの作り手だけではなく、生活者に向けて、美しい暮らしを伝えた功績は大きいとおもいます。
スウェーデンのデザインが優れている大きな要素は、優れた作り手、考え手、売り手、使い手がいるからだと言われています。専門的な美しさだけでなく、生活者それぞれが美しさを内に持っています。それこそがスウェーデンのデザインの魅力なんだとおもいます。

スウェーデンのデザインをみているとデザイナー自身がデザインすることを楽しんでいるのが伝わってくるようなデザインがありますよね。デザイナー自身も作り手であり、使い手でもある。そんな態度が、僕が考えるスウェーデンデザインの魅力の理由のひとつです。池上さんにとっての、スウェーデンデザインの魅力はなんですか?

池上

そうですね。もちろん、違うところはあるかもしれませんが、民藝運動を例にあげると、エレン・ケイの思想がスウェーデンでどのようなものだったか、想像しやすくなるかもしれませんね。
民藝は、もともと柳宗悦さん、河井寛次郎さん、濱田庄司さんが、江戸時代に作られた普段使いの品々に美しさを見出し、蒐集し始めたのが始まりだと、何かで読んだ記憶があります。ですから、須長さんがおっしゃるように、もともと民藝では美しさの中心が「モノ」にあったのだとおもいます。

私は民藝運動に携わった人たちの中でも、民藝という枠を越え、東と西の文化をつなぎ、国際理解を進めようとしたバーナード・リーチに興味があります。というのも、今回のエレン・ケイの『美しさをすべての人に』を和訳したのは、差し出がましい言い方かもしれませんが、自分にも同じような考えがあったからです。
そのバーナード・リーチは、1978年の晩年のインタビューで、自身と民藝運動の関わりを振り返り、このように述べています。

私や濱田、柳が戦ってきたのは、機械文明の時代における手作りの再評価ということだった。

− 加藤 節雄『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』河出書房新社

「機械文明の時代における手作りの再評価」という点では、民藝も、アーツアンドクラフツ運動も、エレン・ケイも、みんな同じだったのだとおもいます。たとえば、エレン・ケイは工業化によって劣悪な製品が住まいに氾濫することで、暮らしが貧しくなり、美しさを失うことを嘆き、スロイド製品や、地方の小屋に見られる簡素な家具などを高く評価しました。
その一方で彼女は、製造業者とアーティストが協働することで、

マッチ箱のようなものからいちばん大きなものまで、すべてが美しい形と適切な装飾になるでしょう。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」

とも述べています。

それは、工業化が進んでも、アーティストの仕事が一般の人たちの暮らしに活かされることで、より良く、美しい暮らしを実現できる、という考え方でした。
この思想は、その後、スウェーデン工芸協会の会長を務めたグレゴール・パウルソンらに引き継がれ、国策として発展し、スウェーデンのモダンデザインを形成していきます。

そして、須長さんからいただいた「池上さんにとっての、スウェーデンデザインの魅力はなんですか?」というご質問についてです。

便利さと美しさの調和こそ本当に努力する価値がある。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」

エレン・ケイの『美しさをすべての人に』を翻訳しながら、何度も思い返した言葉です。
たぶん、私にとってのスウェーデンデザインの魅力は、「調和」なのかもしれません。

たとえば、先ほど挙げたような、スロイドや農民の小屋に見られるような牧歌的なデザインと、工業化による新しい技術を取り入れた都市的なデザインが、人や暮らしの中でうまく調和しているところです。
それはデザインに限らず、休息と就労、個人と全体といったさまざまな領域においても、スウェーデンではたくさんの物事が美しく、ラーゴムに調和しているとおもいます。

須長さんがおっしゃる「スウェーデンのデザインの魅力は、それぞれが内に持っている美しさ」。
スウェーデンデザインが持つその無形の美しさという点では、私が感じていることとも通じているのかもしれませんね。

須長

僕も「機械文明の時代における手作りの再評価」という点では、民藝も、アーツアンドクラフツ運動も、エレン・ケイも、みんな同じだったのだとおもいます。では、どうして手の力を再評価する必要があったのか? ということを考えてみたいとおもいます。

これは、僕なりの答えですが、それは作り手が作ることに喜びを感じているのか? ということなんだとおもうんです。なんだか単純すぎて、なんだとおもわれるかもしれませんが、僕は機械生産でも美しいものが作れるとおもいますし、手仕事でも美しいものが作れるとおもっています。ただ、同じものを大量に正確に生産できる機械生産は、作り手の作る喜びを奪ってしまう可能性が高い、危険性があるということなんだとおもっています。

逆に、同一製品の大量製品だとしても、手仕事の場合、その創作を毎日繰り返すことによって、職人の身体には「流れ」のような動作が染み込みます。例えば、筆で描かれる陶器の図案は、繰り返し描くことで職人は意識することなくそれを作ることができるようになります。余計な力が抜けて、自然な筆の運びによって、もっとも美しい線の境地に辿り着く。これによってもたらされる創作物こそが無意識の美であり、美しいとされているのが民藝の考え方だとおもいます。

このことから分かるように、手仕事の場合、同じ図案を描いていても、その図案は日々変化していきます。野球選手が毎日、素振りをして理想のバッティングフォームを身につけるのと似ているとイメージしてもらうとわかりやすいかもしれません。繰り返しの創作の中にも自分の理想のかたちを求めていく喜びがある。そして、その作り手の喜びというのは、その作られた「もの」に宿ることで、魅力を輝かせるのです。手仕事の魅力の秘密はそこにあるのだと考えています。

エレン・ケイの指す美しさには、作り手の喜びこそが大切な要素だったのではないでしょうか? エレン・ケイの言葉とスウェーデンのデザインや工芸を例に挙げながら、エレン・ケイの指す美しさと作り手の喜びを考察していきたいとおもいます。いかがでしょうか?

池上

「喜び」というキーワードで、エレン・ケイの『美しさをすべての人に』を読み進めていくと、エレン・ケイはこの書籍の中で、大人たちにとって、子どもたちにとって、製造業者にとって、そしてアーティストにとって、暮らしの中にある「喜び」とはどういったものか語りかけています。須長さんのおっしゃる「美しさと作り手の喜び」についても、彼女が直接言及している箇所があるかとおもいますが、私が家庭生活を築く一人の大人として特に印象深く受け止めたのは、エレン・ケイが大人たちに向けて語ったこんな言葉です。

いちばん大切な仕事となるのは創造の喜びに身をささげ、つつましく自然な方法で、家族の心を毎日喜びと美的感覚で満たすことです。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「祝祭の風習」

以前にも触れましたが、エレン・ケイは田舎の自然や農民の小屋に見られる美しさを尊びました。しかし、一方で、たとえ機械化が進んでも、アーティストの仕事がわたしたちの暮らしに活かされるのであれば、より良く、美しい暮らしは実現できる、という考えも持っていました。だから、その点で、「手作りのものが何よりもすばらしい」と主張していた運動とはやや異なっていて、これがエレン・ケイの思想の独自性の一つといえるかもしれません。それでも、アーティストの仕事だったらなんでもいいんだ、なんていっているわけではありません。ここに挙げたエレン・ケイの言葉のとおり、その仕事には、まず創造の喜びに身をささげる姿勢が大切だと説いているわけです。

須長さんがおっしゃる「作り手が作ることに喜びを感じているのか?」という問いは、一見シンプルに聞こえるかもしれませんが、エレン・ケイはそれこそが美しさを得るうえで欠かせない重要な要素だと言っているのだとおもいます。

須長

池上さんが挙げてくれた、

いちばん大切な仕事となるのは創造の喜びに身をささげ、つつましく自然な方法で、家族の心を毎日喜びと美的感覚で満たすことです。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第3章「祝祭の風習」

の文章の中の「身をささげる」という訳が興味深いとおもいました。
「身をささげる」の意味を調べてみると「他人やある物事のために、わが身を犠牲にして尽くすこと。」とあります。

この場合、喜びに身を捧げるのは、創造の喜びによって作られた創造物に対して、または創造の喜びに対してなのでしょうか? その場合、アーティストや工芸作家などに対する生活者の態度となるでしょうし、もし、生活者自身が創造することに対して身を捧げているという意味で使われているのでしたら、生活を作る行為に対する態度になってきますね。

どちらにしても、「身を捧げる」という言葉は我が身を犠牲とするわけですから、「それ相当の覚悟を持って立ち向かいなさい」という強いメッセージですよね。
例えば、舞台俳優やダンサーなどの舞台芸術家が「舞台に身を捧げる」という言葉を使う際には、それこそ己を犠牲にして舞台芸術に向き合う強い決心を感じますよね。
翻訳者としての意図を伺いたいなとおもいました。

それからもう一つ、これを書きながら思い出したのですが、作る喜びについてです。

2025年5月にコンランショップ向けにresömaという家具デザインを行いました。resömaの「re」は、再生する・繰り返すの「re」です。Sömaは何かというと「杣(そま)」という漢字です。あまり使われない漢字ですが万葉集にもでてくるそうなのでかなり古い漢字になります。木偏(へん)に山と書いて、木材へ使用するために木を伐採する「杣」という意味になります。杣師と書けば、山で木材を伐採する人という意味になります。

この家具シリーズは、国内の針葉樹を有効的に利用しています。1960年代に植林したけれど使われず放置された木材が、国内の自然環境に対して悪さをしています。伐採してどんどん使用すれば良いのですが、コストが高く、輸入材に押されて有効的に使用することができていないのが現状です。また、管理があまりされていなかったので、木材に節が多いのも問題になっています。住宅に使用する場合、住宅メーカーは節を避けて製材します。そうすると、丸太から10%程度しか木材にならないといいます。丸太1本の値段が柱1本の値段になってしまうから、もちろん価格は高くなってしまいますよね。そういった問題を解決するために、節のある家具をデザインすることにしたんです。木材として使用する杣を再生するという願いを込めてresömaなわけです。

ちょっと、説明が長くなってしまいましたが、これからが本題です。

上記のような理由で、節のある材料を使った収納家具をデザインしたんですね。そうしたら、家具制作をしてくださっている職人さんが困っているんです。なぜなら、節の位置までは、製図に記していないですから。それを見て「これはいい」とおもいました。職人さんが、より美しい節の配置バランスをお考えになり始めたのです。そして、その困っている様子が楽しそうだったんです。

仮に、同じデザインでも均一の材料を使っていたら、この悩みはなかったとおもいます。ただ、同じものを作るのではなくて、そこに美しさを自ら発見していくことで、制作物が美しさを纏っていく。そういうタイプの美しさというのが、これから求められていくのではないかとおもったわけです。

池上

「身を捧げる」という表現ついて翻訳者の意図を知りたいとのことですが、じつは須長さんのように難しく考えていたわけではありませんでした。

『美しさをすべての人に』の翻訳では、日本語として読みやすくするために言い回しをアレンジしたところと、原文のニュアンスを残すために直訳したところが混在しています。この「身を捧げる」という表現は、後者、すなわち原文に忠実に直訳した部分になります。翻訳していたときは、キリスト教が暮らしの中にある程度根付いているスウェーデンでは、「身を捧げる」とう表現も自然に使われるのだろう、という感覚でいました。
たしかに、日本語で「捧げる」というと、命を捧げる、いけにえを捧げるといったように、強い意味合いを感じる表現になりますね。

エレン・ケイはこの本の中で

まわりに美しさを生みだそうとする強い決意を持った人がほとんどいない。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」

と嘆いています。
そう考えると、彼女の「捧げる」という言葉には強い意味合いが込められているのかもしれません。とはいえ、人は祈りも捧げます。祈りは、対話であり、信仰対象とのつながりを深める手段でもあります。もちろん、例外はあるとはおもいますが、その点では、「捧げる」という表現にも、必ずしも厳しさばかりが伴うわけではないようにおもいます。

『美しさをすべての人に』の中で、エレン・ケイは厳しい言葉で私たちを叱咤しつつも、

美しさを感じとる感覚は、ラーゴムと節度を持った喜びの中にあります。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」

と語りかけます。ラーゴムに、自分の時間の中で、節度を持って行えば大丈夫ですよと、ときに優しい言葉でわたしたちを励ましてくれます。
これは私だけの感想かもしれませんが、相反する言葉を並べながらも全体として調和を生みだすことで、エレン・ケイの言葉には深みが生まれ、読む人を惹きつけてやまないのではないかと感じています。

本当のテイストとは、性質のちがうものや関係から魅力的なアンサンブルを創造することです。

− エレン・ケイ『美しさをすべての人に』第4章「住まいの美しさ」

とエレン・ケイは述べていますが、それをまさに文体で体現して見せてくれているようにおもいます。

そして、resömaについて、須長さんが「職人さんが、ただ同じものを作るのではなく、自らも美しさを発見していく」とおっしゃったのを聞いて、以前話題にしましたが、エレン・ケイがプロデュースした1899年のグリーン・ルームの展示会を思い出しました。
ご存知だとおもいますが、これは彼女が手がけた数少ない展示会の一つで、大成功を収めたことで知られています。この展示会が後押しとなり、『美しさをすべての人に』の出版へとつながっていきます。エレン・ケイを理解する上で非常に重要な展示会です。

この展示会では、労働者階級の人たちでも、多くのお金をかけず、簡素でありがならもスタイリッシュで色彩豊かな住まいをしつらえることができる、ということが示されました。
エレン・ケイは、この展示会が単に労働者のための見本市として終わるのではなく、労働者自身が自らの手で空間を創造する運動へと発展することを願っていました。

つまり、彼女は「一人ひとりが創造する喜びを忘れずにいることこそが、住まいを美しくし、ひいては社会をよりよくすることにつながる」と説いていたわけです。極端に聞こえるかもしれませんが、職人さんが自ら美しさを生みだすような創造的な活動も、最終的には社会をよりよくすることに寄与していくのかもしれませんね。

池上貴之さん

『美しさをすべての人に』翻訳者。1979年岡山県生まれ。金沢大学人間社会研究域准教授として、デザイン教育や北欧デザインに関する講演や論文を発表。2024年よりエデュケーショナル・デザイナーとして、コンストの創作レシピが「障がい者と支援員」や「学生と教育者」などに提供される際の有用性のエビデンス探求などにご協力いただいています。
Instagram

須長檀

一般社団法人konst代表理事/デザイナー。1975年スウェーデン生まれ。王立コンストファック大学院修了後、デザイン事務所を設立。デザイナーとして活躍し、2009年Nordic Design Awardなど受賞多数。北欧の家具や小物を扱うショップ「NATUR TERRACE 」、「lagom 」のオーナーも務める。